今週のお題「部活」
こんばんわ。
インドア派(教育マニア)ファミリーキャンパーの
marcy-k(マーシー・ケー)です。
この時間帯(午前0時27分)に「部活」という単語・・・エモいですね。
部活と言えば、多くの人にとって、「仲間とともに全力で打ち込む場」という感じでしょうか・・・。
私にとって、部活はなんだろう・・・。
色々な青臭い思い出たちが暴れ出してしまったので少し書いてみることにします。
「部活」と聞いて最初に思い出された場面は中学校1年生の初めての陸上大会。
インドア派で、内向的な私も、同じ部員が必死で走る姿を見て、心震わされました。
多少の気恥ずかしさがありつつも、全力で応援してみたのです。
「いけーーーーーー!!!!」
応援しどころが違ったのか、絶叫したのは部員で私一人。
すると、隣の学校の女子部員2人がドン引きした顔でこちらをみて
クスクス笑っていたのです。
私は顔を真っ赤にして、無意味にトイレに行き、個室で呼吸を整えました。
「ああ、そういうキャラじゃなかった・・・」
そう。普段大声など出したことのない私は、見よう見まねで、全力で応援するふりをしました。どこかぎこちなかったかもしれないし、何かがチグハグだったのかもしれません。でも、私には、何がおかしいのか分からなかった。
私は今まで
「仲間と一緒に」
「全力で」「1つの目標に向かって!」
みたいなものとは無縁で過ごしてきました。
「家で一人で」
「淡々と」「150匹のポケモンを探しに・・・」
はい。ゲームボーイをピコピコとやっておりました。(ピコピコという擬音、久しぶりに使いました)
そんな生活をしていた私には、圧倒的に「人を全力で応援する」経験値がありませんでした。
ちょっとポケモン(赤)にハマっている間に、私は社会からだいぶズレてしまったんだ。そんな実感だけがあって途方に暮れ、なかなかトイレから出られなかったことを覚えています。
外のざわめきやアナウンスが次第に自分の出番を知らせ、しぶしぶトイレから出て、淡々と競技を終え、家路に着きました。
家に帰るとニュースの特集で、乙武さんがバリアフリーについて、何やら話をしています。私は、その話をソファにだらんと寝そべりながら・・・聞いていました。側から見れば、だらしなく弛緩しきっているように見えていたと思いますが、肩か、背中か、それとも腰か、どこかに力が入った状態で、頭の中はどこかの学校の女子部員の嘲笑を幾度となく思い出し、どこがおかしかったのか記憶を手繰り寄せ、検証する作業をものすごい回転数でこなしていました。
心にバリアをして、間違えないように、おかしくないように・・・
中学校は、そんな風に過ごしてきました。
日々、間違えないように行動するのは、とても疲れます。
自分に誰かが働きかけてきたときに、相手の真意や意図を読み取り、状況を正確に把握し、自分の現状、立ち位置を分析して、最適な行動を抽出する。この作業はとても苦痛なものでした。
こうした作業を繰り返すしていくうちに、間違えるリスクを限りなく減らす方法に気がつきました。
人との関わりや露出を極限まで下げればいいのです。
私は、次第に昼食の時間に抜け出して、家でご飯を食べるようになります。
朝会で、昼食の時間に抜け出している生徒がいる、と話題になった時、誰も私の話をしませんでした。みんな私が抜けていることすら気づいていなかったのです。
「ああ、いなくてもいいんだなあ・・・」とぼんやりと考えつつも
話しかけてくる友人と談笑しているふりをして、
頭の中は
「自分はどこがおかしいんだろう」
「何をすれば正解なんだろう」
「どうすれば居場所を得られるんだろう」
と、ぐるぐると考えていました。
本音で語れる友人はいないまま
頭の中はいつも自分への間違い探し。
そう。
私が中学校時代打ち込んできたことは
「自分の間違い探し」でした。
部員として、部活に何か貢献しようとしたり、新しいことに挑戦しようとしたり、とにかく、その場その場をありのままの感覚で楽しむことができませんでした。それもそのはず、私の全神経は常に私に集中していたのですから。陸上部の前に「自分の内側の部活」に所属して、そこから抜け出せなくなっていたのです。
今にして思えば本当に勿体無い。でも、その当時の私は、「自分をなるべく客観視して、相手の心をなるべく分析して、自分の振る舞いを決める部活」に所属し、熱中していたのです。
そんなことに気づかぬまま、私は中学校を卒業していきます。
中学校3年生の春休みは、長くて、暇で暇で。家にある古いビデオに録画されている映画を見直していました。
ビデオは昔父親と何度も見たことのあるものでしたが、シーンの中に自分の中学生活を想起させる何かがあると、ズシンと重いものが胸の下あたりに押し込まれるようでした。
そこで、私は古い一本のビデオテープに出会います。
「マイケルジャクソン BADツアー ライブ イン 横浜スタジアム」
ああ、あの幼児虐待の変態アーティストね・・・。
日本でライブとかやってたんだあ・・・
ぼんやりと暇に任せてビデオテープをデッキに入れると
古いからかいつもよりキュルキュルと音を立ててテープが回り始めました。
古いCMをいくつか見て、「ああ、時代を感じるなあ・・」と、感慨に耽りつつ、番組が始まりました。冒頭で、東山紀之さんが登場し、ウキウキした様子で、ライブに行く姿が映し出されました。
ライブが始まると、聞いたこともないような
古臭いのかそうでないのかわからないような音楽とマイケルの踊り、謎のパフォーマンスが途切れなく映し出され、私はなんだかソワソワしながら見ていました。
股間に手を当てる動きも変だし、シャウトも変。だけど、この上なく爽快。
最初に見た感想はその程度でしたが、私が久しぶりに自分の内面ではなく、自分の外側で起こっていることに興味を持ち、集中していたのだと思います。
私は、翌日も予定がなかったので、そのビデオを見ました。
次第にI'll be there. Beat itなどの曲が好きになり、とうとうTSUTAYAに中古のCDアルバムを買いに行くほど、ハマってしまいました。
多分この時私は、ようやく「自分の外側の部活」に所属できたのだと思います。
自分の外側のことに興味を持ち、それに熱中する心地よさ。
確かに私の中学校生活は灰色時代でした。陸上部での思い出もさしていい思い出はありません。
でも、あの頃の自分が、日々、自分を疑い、暗澹たる気持ちで学校に向かっていたその姿はまさしく「全力」そのものだったのだと思います。それは、決して悲壮感の漂うものではなくて、狩猟・採集時代に、食料を求めてさまよっているような切実さが滲み出ていたものと思います。
そして、それは私だけでなくて、多かれ少なかれ同級生は、そんなようなことを心の中に秘めていたのではないかなあ、と勝手に思っています。
社会人になって、会社に属したり、起業して社長の肩書きを持ったり、人は何かに属し、そこにコミットして今を生きています。
「いや、仕事は、趣味の合間にしてるよ」という人は、趣味にコミットして趣味に生かされているのだと思います。
「どんな時だって、人は自分の存在不安と戦っていて、その不安に負けないように、「外側の部活」に所属して打ち込むことで忘れている。」
そう考えると、中学校時代の私はひと時も存在不安を忘れずに、自分と対峙して、陸上部にも一応所属していて、今よりよっぽどたくましい。「よくやった!」とその頃の自分を抱きしめてやりたくなります。
今、私は幸いなことに、外の部活に多数所属していて、「存在不安」を忘れがちです。
このブログもそうです。皆さんのブログいつも楽しみにしています。
ただ、一番熱中している部活は「ファミリーキャンプ」です。
友人と話している時でさえ自分のことばかり見ていてうわの空だった私が
ただテントを立てる。
ただ美味しいご飯を食べる。
ただ子どもと遊ぶ。
そのどれにも集中できている。
それが自分にとって、どんなにすごいことか、「部活」についてこうしてブログに書く中で、思い出してきました。
痩せていて、口をキュッと結んで、肩幅も狭くてなで肩だけど肩がこわばってる。そんな中学校時代の自分に、そういう未来が来るんだと、教えてあげたいな。
「家族とするキャンプは本当に楽しいよ」って。
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超絶自分語りで、これ翌朝絶対恥ずかしくなるやつだと思いますが、あえて書き残しておきます。もしかしたら、あまりに恥ずかしくなって、「やっちまったーーー」と落ち込んで、しばらくは「自分の内面の部活」に所属することになるかもしれませんが、その時はマイケルの歌を聴きつつ、キャンプをすれば、次第に回復していくかと思いますので、気長に待ってやってください。
今後ともよろしくお願いします。
追記
ちなみに下記のinsightという書籍によると

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自己認識を妨げる障壁として
日記を書きすぎることで起きる自己憐憫が指摘されております。
皆様も、私のこの日記のように自分をわかったように自分語りしていると
いつの間にか自己憐憫が発動し、文章中に
「よくやった!」とその頃の自分を抱きしめてやりたくなります。
などと勢いで書いてしまいます。
くれぐれもお気をつけください。
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